退院後の治療方針

甲状腺乳頭状腺癌のスタンダードは、甲状腺全摘をしてからのアブレーション治療のようです。

全摘と言っても、わずかに残っている可能性があり、放置により甲状腺がんの再発や他の部位への転移の可能性があるので、その予防を目的として放射性ヨウ素を内服するのです。

ポイントは、全摘でないと治療の対象にはならないことです。つまり片側だけの摘出では再発や転移の可能性が高いということになりますよね。

なので、最初はできるだけ良いものは残しておきたいと思い全摘の決心がなかなかつかなかったのですが、胸部レントゲンにより麻酔科医師から手術の延期指示が出たときに、私の場合必要な時にすぐに手術ができないことも考えられるため、やはり全摘を勧めますと言われたときに決心がつきました。

手術を終えて、甲状腺に関してはもう手術の可能性はないこと、再発予防の手立てがあることに安心感がありました。そういう意味では担当医に感謝です(*^^)v

摘出物の組織検査で、幸いリンパへの転移もなく、放射線量が少ない外来での治療ができることになりました。

入院での治療の場合は、北海道ですと札幌市か旭川市で受けなくてはなりません。そうなると隔離的な入院生活となりますので、様々な不安がありました。

でも、外来治療が可能で地元の北見でできるので、精神的負担も軽減できました。

そうはいっても、治療の準備や治療後も様々な大変さがありました。

それは、次回にします。

 

今は、アブレーションって言葉は普通理解でき言葉にしていますが、当初は何ぞや?っでした。

 

 

術後2日目から退院まで

傷の痛みはなく過ごせました。

首のところに入っていた2本の管は2日目に抜けました。むにゅ~と意外と長く入っていました。2日間はドレーン(管)の先の血抜きの容器を入れた袋のひもを首にかけて歩行していました。最初はネックレスのようにかけていたのですが意外と首がコリ、抜く数時間前からたすき掛けにしましたら、随分楽でした(>_<)もっと早くからそうすればよかったと反省。

全身麻酔には気管チューブが口から挿入されます。挿入するときは麻酔が効いていますからもちろん痛くはないのですが、2日目にのどの痛みが気になり、手術の説明書にのどが痛い人のどの吸入をしますと書かれてあったので、数日吸入をして頂きました。ですよねぇ。数時間ですが気管チューブがのどのところにあるんですものね。やはり、痛みはないほうが生活も楽ですし精神的にも安定しますね。

7日後には首の縫合部の抜糸とともに、傷跡をきれいに保つためにテープを貼ってくださいました。以後ははがれたときに自分で張替えをします。目立たないように茶色いテープでした。過去2回手術を受けたときには傷跡へのフォローはない時代でしたが、今回は首ですから人目につきますので、きちんとして頂き感謝です!(^^)!

 

今回の入院は個室をお願いしました。 仕事の関連の電話もありますのでその都度ロビーに行くのも大変ですし、元の古巣の病院ですから顔を見にきてくれる人も結構いますしね。個室料金はかかりましたが、快適に過ごせましたからオーライです(*^^)v

振り返ると、手術は毎回ですが手術台での覚醒直後が一番つらいです。もうろうとしているから思いを抑制できず・・・今回の場合はとにかく目覚めたときに暑くてたまらなくて、ひざ下にはいている弾性ストッキングを足の親指をストッキングにかけて脱ごうとしたり(看護師さんが医師の了解を得て足首まで下げてくださり、病室に戻ってからは血栓防止に足を動かしますということで脱がしてもらいました)首のところもとにかく暑くてもがくように脱ごうとしていたら、ベッドから落ちますよ、と言われた記憶が残っています。こうやって振り返ってみると何だか恥ずかしいですね( ;∀;)

手術後 夜から朝まで  テタニー出現

耳鼻科病棟は2交代でしたので、当日夜間から翌朝までは若い優しい看護師さんが担当でした。深夜の交代の看護師さんはベテランの後輩でした。

日にちが変わり、意識も明瞭で疼痛で苦しむことなく経過していました。

時間の確認をしたいので、看護師さんにかばんから携帯電話を取ってもらい頭もとに置きました。1時半ころにぶるると震えを感じたので何?と思い携帯を触りましたが震えていず、よく観察すると自分の両手がバイブのように震えていたようです。何せ初めての経験でしたので最初状況がつかめませんでした。甲状腺の裏側には上皮小体という米粒くらいの臓器があり、4個のうち2個取ったと聞いていましたので、カルシウムが低くなりやすいようです。

テタニーという言葉は知っていましたが、実際に見たことはありませんでした。ただ重症になると痙攣が起きることは記憶していました。最初は手だけでしたが時間と共に肘まで範囲が広がってきました。これはさすがに不安になりナースコールを押しました。

カルシウムの値を確認するための採血をしてから、カルチコール入りの点滴をしました。その後は4時20分と7時半の計3回繰り返しました。カルシウム値は軽度の低下でしたが、体は正直だなぁと思う1日でした。

手術前と直後

f:id:satomi3711:20190702235330j:plain

全身麻酔を受けるのは、3回目です。

21歳で受けたときは、前日は剃毛と言って手術部位のムダ毛をそったり、睡眠導入剤を頂いたり(でも快眠の私は飲みませんでしたよ。もちろん看護師さんと相談してですけど。)、当日は鼻から胃へのチューブを入れたり、浣腸をしたり有りましたが、

今回は、眠剤をどうお断りしようかと思っていましたら、なんと、眠れないようでしたらお渡ししますので言ってくださいって、まあありがたいこと!(^^)! 勿論、しっかり眠れましたよ。

消化管の手術でないせいか、朝も浣腸いえ排便を促す座薬すらないんです。産科専門で生きてきましたから他科の進歩もはっきりってわかつていなかったのです( ;∀;)

血栓予防の弾力タイツも太ももまでと過去の情報しかないものだから、カーテンして夫にも出てもらったら、なんと膝まででした(>_<)

時間になったら、看護師と共に徒歩で手術室へGOでした。手術室ではこれまた嬉しいことに看護学校で教員をしていた時の担任をしていた卒業生が担当看護師だったので、さして緊張もせず同期の卒業生の話をしながら、一瞬で麻酔に落ちていました。

OP後はもうろうとした中でしたが、担当医が一緒にエレベーターに乗ってくれてたのが心強かった記憶がありますが、幻かも?

私が一番心配だったのは、もともと喘息と肺MAC症の影響か座っていると良いのですが、横になると咳が出ていて、入院直前も寝るときに水分やのど飴を口にしないと咳が落ち着かず苦しい生活でしたので、咳が止まらなかったり呼吸が苦しかったらどうしようということでした。

手術前日に、のど飴のことを麻酔科医に確認して頂いたところ、許可が出ませんでした。最近はガムを噛んでもOPが延期になる事もあるらしく、1ヶ月延期になりやっと体調と仕事の調整をして臨んだのに延期だなんてあり得ないと思い、水分は可能でしたのでそれを頼りに夜が過ぎました。

術後は私は勿論ぼ~~っとしていましたが、夫が写真を撮ってくれていました。そして、家族のラインにも送っていました。

のどのところにある2本のドレーンが痛々しさを醸し出していますが痛みはありませんでしたよ。

帰室後3時間で5分かゆ(のはず)開始です。

また、ありがたきことに現役勤務している看護学校の同級生も顔を出してくれて、これまた安心感が!

と、術後3時間までのことでした。

病名どうする??

”がん”、と言うと、言われたほうも気を使わせてしまうかもしれないし、反面、伝えないでいると入院や病気のことも知っている方にはどう語ればよいのか困りものです。

私はこれまで概ねオープンに生きてきましたし、あの人に言ってあの人には言わないみたいなことをすると、たくさんの方とのかかわりを頂いてる私にとっては会話がぐちゃぐちゃになりそうな不安がよぎりました。   そして、過去の体験で、もしかして言わないけれど”がん”のようみたいな方には、こちらも言葉を選ぶのにもエネルギーを要した記憶があるので、そのような気も使わせていくのも嫌でした。

今や”がん”は治る病気とも言われてはいるけれど、当事者はやはりそう楽観的には受けとめることはできないのも事実です。

夫には、比較的事務的に伝えることができましたが、

娘たちには少し時間をおいて話しました。そして、兄弟にも落ち着いて話せました。

一番最後に話をしたのは母にです。 

甲状腺が大きくなっているから取ったほうがいいって言われたから、また全身麻酔で手術なんだよね~~と軽いノリで話しました。

4年前に父が突然他界し、母は私の家から10分ほどのところに一人で暮らしています。市内に長女である私と次男である弟がいますので、今も比較的精神的にも安定しています。

夫である父が亡くなったときは、私も弟も母とその最後を共にすることができました。殆ど毎日一緒に行動していた両親でしたので母の落ち込みが心配でしたが、数カ月で生活も落ち着くことができました。

それは、娘である私が元気でそばにいたからです。(母からもそういわれていました)今までの喘息だの肺炎だのは何のためらいもなく言えましたが、私を精神的に頼りにしている母に”がん”とはなかなか言えない日々でした。

手術前にすでに甲状腺乳頭癌であろうことは言われていましたが、もしかしたら組織診で違う結果がでるかもとかすかな願いをこめ100%確定が出たら話そうと決めました。そうしている間に、堀ちえみさんの舌癌ステージⅣが毎日テレビで放映され、そのどさくさで話しました(>_<)

手術してから2ヶ月近くたってのことでした。

やはり、生命に影響の少ないがんと言っても、伝えるのには私なりにいろいろ悩みながらでした。

 

2019年 令和元年 闘病記のはじまり~

f:id:satomi3711:20180715180418j:plain

3年ぶりの投稿です。

ここ数年は、仕事の関係でFacebookがメインでしたが、

昨年突然癌宣告を受け(と言ってもそんなに重篤な感じではないのですが)、ブログで自分と同じ病気の方の情報を得ることができたのは、実に心強いものでしたので、私も何かしらの情報を発信したいと考えました。

昨年10月の、肺炎での内科退院後の受診で入院直前に撮ったCTで甲状腺が大きくなっていると言われ、翌日耳鼻科受診。

触診でおそらく良性だと思うけどねと言われ、甲状腺エコーと採血、そして甲状腺に直接針を刺して細胞診。

後日、医師から告げられたのは、悪性でした。

私の癌は甲状腺乳頭状腺癌、分化癌で予後も良いものでした。でも、告げられた時の私の口からは「え~~~~~っ!!」しか出ませんでした。

癌の遺伝性家系でもなかったし、おそらく良性だと言われていたから、一人で受診でしたから・・

医師からは、全摘をすることでアブレーションができることや、術後10年間はフォローしていくことが必要と説明を受けました。

その時はアブレーションって何?という感じでしたが、聞く余裕もなくでした。

でも、そんなに時間かからず、事実を受け止め、”いつも通りに生きていく”と切りかえることができた私でした。

それは、子どもたちが3人とも成人を迎えていたことも大きかったです。自分で生きる力を持つようにして社会に巣立たせることが、親としての役目と思い過ごしていたからです。

でも、最初は食生活の事や、体温が低かったこと、鉄塔の近くで電磁波バリバリだったこと、電子レンジも使っていたし、最近パソコンタブレットも半端なく使っていたし。ストレスが外に発散というよりはいつも自分の体に痛めつける感じだった。そんなことで、自分を責めた時期もありました・・・・

とは言え、過去ばかり振り返っても仕方ないものね。前を向いて生きていかなきゃ!(^^)!

 

今日は、告知から受け止めまででした。

今後は、病気を周囲にどう伝えか.。手術での入院記。退院後の生活。仕事復帰。内照射治療。内照射の副作用などを書き綴る予定です。

 

 

 

2016


10年使用したパソコンの調子が悪く、1月にウィンドウズ10に買い換えました。そうしましたらパスワードが思い出せずしばらく書くことができませんでした(>_<)


1月6日に保健所に助産院の開業届を提出し、だるまの目に目を入れ両目があきました♬
2月27日には第1回のオホーツクキャリアデザイン大賞にノミネートされ熱い思いを3分間スピーチさせていただきました。

プロモーションビデオが後程いただけるそうで楽しみです。




お祝いもたくさん頂きました。感謝の極みです。
ベビーマッサージのご用命もあり、レッスンさせていただきました。
次につながるおおきな幸せを感じました。ありがとうございました!(^^)!



パラボで開催されていた大江戸展で築地のだし巻き卵を購入しました。
私が毎日つくるお弁当の卵やきより、随分おいしいような反応でした( ;∀;)
まあ、これは仕方ない。料理の自身ありませんから〜